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保田與重郎 略歴

保田與重郎 略歴(年齢は数え年)

明治43年 1歳 4月15日、奈良県磯城郡桜井町(現桜井市)に生まれる。
大正12年 14歳 畝傍中学校に入学。
昭和 3年 19歳 大阪高等学校文科乙類に入学。
昭和 5年 21歳 1月、同級の田中克己らと短歌誌「炫火」を創刊。
昭和 6年 22歳 東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、美学を専攻。
昭和 7年 23歳 3月、大阪高等学校同窓生と同人誌「コギト」を創刊(昭和19年9月終刊)、その中心的な存在となる。
昭和10年 26歳 3月、神保光太郎、亀井勝一郎、中谷孝雄らと「日本浪曼派」を創刊(昭和13年8月終刊)。のちに佐藤春夫、萩原朔太郎、伊東静雄、太宰治などが参加、一大文学運動となる。
昭和11年 27歳 『日本の橋』、『英雄と詩人』を刊行。
昭和12年 28歳 「日本の橋」その他の作品で池谷信三郎賞を受賞。
昭和13年 29歳 柏原典子と結婚。『戴冠詩人の御一人者』を刊行し北村透谷賞を受賞、新進文芸評論家としての地位を確立し、文壇でも旺盛な執筆活動をはじめる。
昭和14年 30歳 『後鳥羽院』『ヱルテルは何故死んだか』等を刊行。
昭和16年 32歳 『美の擁護』『民族と文藝』、『近代の終焉』等を刊行。
昭和17年 33歳 『古典論』『和泉式部私抄』『萬葉集の精神』『風景と歴史』等を刊行。日本文学の系譜を跡づける仕事を主とするとともに、いわゆる日本主義的言説がはびこる戦時にあって、独自の日本観と反西洋近代の立場から、さかんに時評を発表。
昭和18年 34歳 『蒙彊』『機織る少女』『芭蕉』『南山踏雲録』『文明一新論』等を刊行。
昭和19年 35歳 4月、私家版『校註祝詞』を刊行、出陣学徒に贈る。この夏から自宅は常時私服憲兵の監視するところとなる。9月に「鳥見のひかり」を発表、11月に「事依佐志論」、翌年4月に「神助ノ説」を発表し『鳥見のひかり』三部作成る。この冬より病臥、年明けには瀕死の状態となる。
昭和20年 36歳 3月、病中に応召。中国大陸に派遣されるも、石門に至り大患を得て軍病院に入院、そのまま敗戦を迎える。
昭和21年 37歳 5月に帰国、以後郷里の桜井の地で農業に従事する。戦後のジャーナリズムと知識人から指弾・黙殺を受ける一方、保田を慕う青年らが桜井に多数集まるようになる。
昭和23年 39歳 「追放令」G項該当者として公職追放となる。
昭和24年 40歳 保田を慕う青年らと「まさき會祖國社」を立上げ、9月、雑誌「祖國」を創刊(昭和30年2月終刊)。以後無署名の文章を毎号のように発表。
昭和25年 41歳 祖國社より『日本に祈る』『絶對平和論』を刊行。
昭和30年 46歳 7月、総合誌「新論」を創刊(昭和31年1月)終刊。
昭和32年 48歳 3月、歌誌「風日」を創刊。同月、京都に教育図書出版社「新学社」を設立。
昭和33年 49歳 12月、京都の鳴滝に新居を定め、「身余堂」と命名。
昭和35年 51歳 『述志新論』の著述を発意する。
昭和38年 54歳 「新潮」に「現代畸人傳」の連載をはじめ、戦後の文壇ジャーナリズムに再登場する。新学社より、佐藤春夫が監修しみずから編集した『規範国語読本』を刊行。
昭和39年 55歳 『現代畸人傅』を刊行。
昭和40年 56歳 『大和長谷寺』を刊行。大津の義仲寺再建に尽力し、落慶式を主宰。
昭和43年 59歳 『日本の美術史』を刊行。
昭和44年 60歳 『日本浪曼派の時代』等を刊行。
昭和46年 62歳 歌集『木丹木母集』等を刊行。
昭和47年 63歳 『日本の文學史』等を刊行。
昭和51年 67歳 落柿舎第13世庵主となり、「落柿舎守当番」と称する。
昭和56年 72歳 10月4日、肺癌のため死去。
保田與重郎が執筆した作品群

好学出版

思考力検定

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